So-net無料ブログ作成
検索選択

スポンサードリンク

江戸時代のロシアブーム [雑学としての歴史]

本日は江戸時代の鎖国下にロシアブームが起きていた、という読売新聞の記事からです。

井上靖の小説『おそろしや国酔夢譚』のモデルとなった大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)の話で、彼がロシアからもたらした知識や文物が、当時の大名から庶民まで多くの人たちに異国への興味をかき立てたというのです。

187_000.jpg

引用元:鈴鹿市

大黒屋光太夫(1751~1828)は伊勢の船頭で、1782年、嵐に遭って漂流し、アリューシャン列島に漂着しました。ここで4年ほど過ごした後、ロシアの商人とともにペテルブルグにわたり、女帝・エカテリーナ2世に会っています。日本への帰国を懇願しますが聞き入れられず、約6年を過ごしています。
1792年、日本に通商を求めたラクスマンの根室来航に伴って、一緒に漂流した磯吉らと帰国しました。
大黒屋光太夫については以下に詳しく書かれています。
↓↓↓
http://www006.upp.so-net.ne.jp/asao/koudayu.htm

読売新聞によると、江戸時代の当時、光太夫はスター的存在だったそうです。
今回、神田外語大(千葉市)の洋学書コレクションから、光太夫がロシア文字(キリル文字)を墨書した和紙が見つかり、その一端を示している、としています。

【引用】
光太夫は10年近いロシア滞在で言葉に精通し、現地の事情を熟知。それらを聴取した蘭学者の桂川甫周がロシアの地誌『北槎聞略(ほくさぶんりゃく)』を著すなど、光太夫は学術研究や外交に貢献した。さらに、持ち帰った衣服や生活用具は、各地で紹介され人気を博した。
神田外語大で見つかった和紙は縦31センチ横47センチ。上段に大きく「フクジュ」(福寿)と記され、下段には小さく「イセ ダイコー」と書かれていた
下段の記述は、光太夫の出身地の「伊勢」と名前からとった「大光」で、光太夫の署名を表している。

同大学は、京都の書店主が収集した幕末から明治初期の洋学書、約1400冊を「洋学文庫」として所蔵。文庫を調査していた客員教授の松田清・京都大学名誉教授(洋学史)が、箱に保管されていたのを見つけ、解読した。
松田名誉教授によると、光太夫自筆のロシア文字の墨書はこれまでに約40点が知られている。「フクジュ」は今回で5例目で、書かれた時期や誰に書いたかのかは不明。サイン色紙のようなもので求めに応じて各地で揮毫したものの一つという。

文化年間(1804~1818)には、福寿草の鉢植えが流行しており、「フクジュ」と書いたのは、福寿草ブームが背景にあるようだ。松田名誉教授は「ロシアの厳しい冬に耐えて生きながらえ、帰国できた喜びを福寿草に見出したのでは」と推測する。

光太夫は、国禁を犯した罪人として幕府に監禁されていたような印象もあるが、実際には将軍・徳川家斉に会い、旗本格の身分で召し抱えられていた。松田名誉教授は「ロシア文字は蘭学者も読めなかった。知識階級だけでなく、庶民の好奇心も満足させたことを、光太夫が残した数々の墨書が証明している」と語る。

大黒屋光太夫記念館(三重県鈴鹿市)を所管する鈴鹿市文化財課の宮崎哲郎・文化財グループリーダーは「発見された和紙などから、光太夫が日本にロシアブームを巻き起こしていたことがうかがえる。日本とロシアの平和的な交流を象徴する人物に新たな光を与える研究だ」と評価している。
読売新聞1月18日15面

この時代は江戸時代の後期、老中・田沼意次の時代です。
最も江戸らしい時代といわれ、洋学が栄え、前野良沢や杉田玄白 が『解体新書』を刊行、国学では賀茂真淵(かものまぶち)が『万葉集』などの古典を研究し、本居宣長は『古事記伝』を著しています。与謝蕪村、北川歌麿、東洲斎写楽、葛飾北斎などが登場しました。
約15年田沼時代は続き、その後、1787年、松平定信の「寛政の改革」により緊縮財政の時代に移っていきます。

当時の日本にとってロシアから帰国した大黒屋光太夫はヒーローだったのでしょうね。
サインを求めた、というのも今と変わらない感覚ですね。

また北方ではロシアが姿を現わし始めている時期で、田沼も危機感から北海道(蝦夷地)の開発を真剣に考えていたようです。調査団を派遣し測量などを実施しています。

明治に入って「ロシアの南下」が本当に脅威だったか、改めて疑問に思いました。


nice!(4)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 4

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

広告スペース
Copyright © シニカルを目指すわたしの雑学 All Rights Reserved.