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江戸時代に潜入 宣教師シドッチ [雑学としての歴史]

本日は江戸時代、「最期の潜入宣教師」と呼ばれるジョヴァンニ・バチスタ・シドッチの話です。

3月15日の読売新聞に、上智学院理事長高祖敏明氏の寄稿で、シドッチは江戸時代「禁教下の日本になぜ潜入」、という記事が掲載されていました。

2014年夏、江戸切支丹屋敷跡地から墓が見つかり、そこから発見されたお骨の「DNA鑑定と歴史的追跡」から、シドッチと特定されたということです。

シドッチは1708年(宝永5年)に屋久島の浦崎に上陸しましたが、密入国であったためすぐに捕まり長崎から江戸の切支丹屋敷に送られました。
そこで徳川6代将軍家宣の侍講・新井白石から尋問を受けました。
白石は当時の幕臣などから「鬼」とも言われた日本を代表する天才的学者ですが、この時の対話を基にして後に「西洋紀聞」を著しました。

シドッチの自然科学に対する博識、快濶で謙虚な人柄に感銘を受けたということです。
また当時の西洋人がすでに地球一周の航海術まで発見・実践していることに対して、白石は驚くばかりでしたが、キリスト教の話になると仏教に似ているところもあるが比べ物にならないと思っていたようです。

高祖氏は、「鎖国体制のもと、執拗な摘発と迫害が繰り返され、布教活動はできないと知っていたはずの日本になぜ来たのか」とシドッチの人物像に迫っていました。
シドッチは、イタリアの貴族の家に生まれ、ローマ教皇庁の法律顧問の要職にあったカトリック神父、としています。
オランダのカピタン(商館長)は「母国で犯した罪を死で償うために来たのだろう」と白石に伝えるのですが、それには耳を貸さず、シドッチの言動から、「教皇庁派遣の使節かと思える」と記しているそうです。

高祖氏はシドッチを日本語で「イエズス会士」と伝えられる向きもあるが、修道会に属さない教区司祭、と指摘しています。
副題に「江戸時代、カトリック宣教師シドッチ」とあり、明確に「イエズス会」と分けて分析されているところが興味深いです。
ちなみに「イエズス会」と言うのは「教皇の精鋭部隊、軍隊」とも言われカトリックの中にある、キリスト教が浸透していない地域に行き、宣教活動をするために設立された修道会のことです。

シドッチは教皇庁の要職を捨ててまでなぜ日本に潜入したのか、と高祖氏は問いかけています。

【引用】
当時、先祖崇拝を慣習的儀礼と見ず偶像崇拝と見なす教皇庁への反発から、禁教状態にあった中国では皇帝がローマ教皇の使節の受け入れを決め、フランス人総大司教が特使として派遣された。シドッチはそれに同行してアジアに来た。2人は、最近の教会関係資料の分析によれば、教皇庁に新設された布教省から派遣された。シドッチも布教省の命を受け、ローマですでに日本語学習を始めていた。

他方、幕府の鎖国政策は、幕府による海外貿易の独占と情報統制を目指し、「キリスト教は日本を侵略する。それを防ぐため禁教し、国を閉ざす」という「キリスト教奪国論」に立っていた。白石は、それは誤解だとシドッチが説いていたと伝える。しかも白石は、キリシタンの教えは荒唐無稽としつつも、教えの本意や地勢を考えれば「謀略の一事はゆめゆめあるまじき事と存ぜられ候」と奪国論を明確に否定した。

結局シドッチ来日の狙いは、正式な特使ではないにせよ、鎖国して70年が経つ日本の情勢変化を確かめ、禁教の誤解を解き、幕府に開国を促すことではなかったか。

シドッチは世話人夫婦に洗礼を授けたことが発覚して地下牢に監禁され、1714年に数え47歳で死んだ。白石の上申書も幕府の上層部に留め置かれ、禁教政策の転換にはならなかった。が、外国の資料も含めた歴史研究が進めば、シドッチのもうひとつの秘められた顔が明確になろう。
読売新聞3月15日 17面

言葉も十分に伝わらない世話人夫婦に洗礼を授けたことは、宗教というイデオロギーの強さを感じますが、この老夫婦の親はキリスト教徒ということもあったようです。

個人的には、「鎖国」は日本をキリスト教の世界的戦略から守るということでは意味があったと思っています。
ウィキペディアのポルトガル人による日本人などのアジア人の奴隷貿易を読むと、以下のような記載があります。

「ポルトガル人が日本で日本人を奴隷として買い付け、ポルトガル本国を含む海外の様々な場所で売りつけるという大規模な奴隷交易が発展した」

秀吉はこの奴隷交易を非難し、結果としてキリスト教への強制改宗が禁止されることになるのですが、政策としても宗教管理を行っています。

次期学習指導要領では「鎖国」という表記がなくなると言われていますね。
西尾幹二氏は著書「国民の歴史」で「鎖国」と言う言葉は存在しなかったと指摘されています。

「幕府は『寛永十年の令』『寛永十六年の令』といった渡航禁止令や蛮族打払いの令を出しただけである。しかも、これら政策の立案者にも、実行者にも、国を閉ざすという意識がまったくといっていいほどなかった。『寛永の令』は国を閉ざしたものではなく、ポルトガルとの断交を意味したにすぎない」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-392.html?sp

長年「鎖国」という言葉に慣れてきたものとしては、複雑な思いがありますが、子どもたちが正しい歴史認識を持つことは大事なことです。
シドッチの秘められた姿も明らかになってくるのでしょうか。

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