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「神は細部に宿りたまう」実証史学の秦郁彦氏 [新聞記事]

読売新聞で「時代の証言者」というコーナーがあるのですが、前回は歴史学者の秦郁彦氏の「実証史学への道」(全31回)が連載されていました。
ちなみに今は湯川れい子さんです。

秦郁彦氏は日本の官僚、歴史学者で、研究分野は日本の近現代史、第二次世界大戦を中心とした日本の軍事史、ということです。
秦郁彦

記事を読んでみて、公平な視点で戦前の日本と戦後における自虐史観の真偽を明らかにしてこられた方だと思いました。
このコーナーは芸能関係の方も多く取り上げているのですが、秦郁彦氏の名前が気になったことと、満州事変以降の話に興味があったのでつらつらと読んでいました。

秦氏の事実への興味は、小学校3年生の時始まった太平洋戦争の新聞記事をノートに書き写すことから始まります。
戦中の主な出来事の日付、戦所、戦果を記録していたようで、子どもは書くことで記憶に残ると書かれていました。
記録を取りながら大本営発表と事実の誤差に気づき次第に疑問を持つようになったと、いうことです。

例えば、真珠湾攻撃に特殊潜航艇で参加し、戦死した「九軍神」。二人乗りの特潜だから、10人のはずなのに、なぜ9人なのか。実際は酒巻和男少尉が捕虜になったため、その存在を隠して発表したわけですね。(読売新聞3月15日10面)

このように子どもながらに不思議に思っていたそうですが、米国もまた戦果を正直に発表していない事実を知り、自国に不利な情報を出したくない気持ちは、共通の心理と述べています。

戦争の記録をつぶさに残してきたことが後の研究へと結びつくわけですが、「日本紀元2600年」の虚構、中学時代からマルクス主義の影響を受けたこと、戦後米軍の占領政策が成功したこと(米国にとって)など日本の戦前戦後の思想的流れも、少しつかめました。
やはり日本は戦前から共産主義がはびこっていたのだと思います。しかし秦氏はそういうイデオロギーに関心はなく自分の研究に没頭していきます。

終戦を迎えるにあたり、徹底抗戦を主張しクーデターまで起こした中堅将校の中心的人物は、阿南陸軍大臣の義弟で、戦後は自衛隊に入隊しています。そこで米国流の民主主義が思ったより悪くないと実感するようになった、ということです。
米国の占領政策が成功したとはこういうことだと思います。

高校時代の恩師である校長田中俊英氏の時事問題の授業を受けた時のエピソードは印象的でした。
当時朝鮮戦争が始まり、田中先生は「これは北(北朝鮮)が南(韓国)へ侵攻したんだ」と明快に告げたというのです。

【引用】
証拠は北朝鮮軍が、開戦初日に、38度線の南40キロの東海岸に位置する江陵などに上陸したからだ、というんです。開戦前から準備しなければ、初日に上陸作戦はできません。先生は目立たぬ数行の新聞記事に着目し、戦争の性格を見抜いたんですね。
その後、朝鮮戦争については、南北のいずれが攻勢を発動したのかをめぐり、「先攻論争」が起きます。金日成、毛沢東、スターリンの合作による北の侵攻と確定するまで、20年以上を要しました。大ニュースに紛れ込んでいて、誰も気づかない小さな事実。それを読み解く田中先生の洞察力に、わたしは感動しました。(3月21日12面)

ここで秦氏は「神は細部に宿りたまう」という金言を紹介しています。
言葉を追い続けているわたしにとっても、「本当にそうだな」と思いました。

東京大学時代、丸山真男に影響を受けたというところは少し驚きでした。しかも「白眉 丸山真男の分析力」としています。

【引用】
<丸山は「超国家主義の論理と心理」などの論文で、日本軍国主義の構造を鋭く分析し、戦後の思想界に大きな影響を与えた。60年安保で思想的リーダーになるが、70年安保の頃に、東大の権威主義に反発する全共闘の過激派学生から糾弾された>(3月22日10面)

秦氏は丸山を「一世紀に一人でるかどうかのすごい研究者。その分析力とレトリックに逆立ちしても追いつけない」と、思想史では丸山を超えられないと悟り、一般の歴史学に切り替えたということです。

丸山真男については戦後の左翼思想に影響を与えた人というくらいの認識でしたが、直に講義を受け議論を交わした秦氏にとっては、その「分析力が白眉」という実感のこもる言葉が印象的で、丸山真男に対する見方が変わりました。
秦氏と丸山は個人的交流もあるのですが、丸山が周りに祭り上げられていく中で遠ざかっていくことになり、秦氏は次の目標に向かって歩み始めます。
1953年、秦氏は1年間休学しA級戦犯を含む軍人のヒアリングを行っています。

当時の風潮はA級戦犯に限らず軍人は悪党ばかりという思い込みが強かった、ということです。
そういう中、学生が話を聞きに来ることが意外だったようで、彼らはそろって好意的だったそうです。
「軍国主義=悪」という刷り込みは、戦後10年もたたずに社会に浸透していったわけですね。戦前の軍国主義に対する忌避志向は今も根深いものがあります。

ヒアリングの始めは「満州事変の起点となった柳条湖事件」の究明が中心だったということです。

柳条湖事件
<1931年9月18日夜、中国・奉天(現藩陽)郊外の柳条湖で、日本権益の満鉄線が爆破された。関東軍は自作自演の陰謀にもかかわらず、中国軍の仕業だとして攻撃を開始、満州占領へと拡大させた>(3月25日14面)

満州事変の首謀者だった石原莞爾と板垣征四郎(A級戦犯で刑死)はもちろん検察側証人として日本軍の「罪悪」を暴露した田中隆吉(元兵務局長)も真相には口を濁したということです。
最初に真相を告白したのは、当時奉天の特務機関にいた花谷正元中将とのことで、そこから事件に関わった人への聞き取り調査を行い柳条湖事件の全貌が明らかになるのは、学生時代を含めて30年かかったということでした。

秦氏は石原莞爾について第15回「『国家ヲ強引』した石原莞爾」で述べています。
わたしも個人的に興味があった部分です。

秦氏は「満州事変の首謀者である石原が、A級戦犯にならなかったのは不思議」と指摘していますが、実情が明らかにされます。
A級被告選定で経済人の石原広一郎を石原莞爾と勘違いしていたことが判明し、慌てた検事が入院中の石原に面接しますが「重体」のため調書が作れず、被告リストから外されたというのです。

満州事変における石原莞爾の構想を裏付ける資料を、秦氏は石原の没後見つけ出しています。「満州問題私見」と呼ばれるもので、山形県に住む石原夫人と弟さんが、大切に保管していたということです。

「謀略ニヨリ機会ヲ作製シ軍部主導トナリ国家ヲ強引スルコト必スシモ困難ニアラス」(1931年5月22日)
このくだりがよく知られているそうです。

この種の謀略に関わった人たちは文書での証拠を残していないそうですが、秦氏によると「石原は、一中佐にすぎないのに、まるで自らが参謀総長になって天皇の統帥権を代行するような感覚」で残していると評しています。
秦氏は石原莞爾に関する論評を書かれていますが、「天才的な軍事思想家」ではあったが「日本を破滅の道へ追いやった責任者」と辛口で総括したそうです。
遺族は不満だったそうですが、手加減できない所が、歴史家としてつらいところ、と仰っています。

秦氏が「一中佐にすぎない」と指摘しているように、正当な手続きを経なかったとはいえ、建国された満州国の見事な出来栄えに、当時の国家指導者は石原が日中戦争で不拡大を主張しても聞く耳を持たなかった、といえます。
「日本を破滅の道へ追いやった責任者」と断じているところは、遺族にも石原本人にも気の毒だと思いました。石原はきっかけを作り、その後は国家とのすり合わせが必要だったと思います。

後半もあるのですが、長くなるので次回にします。
有料ですが読売オンラインでも読むことができます。
実証史学への道 秦郁彦


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